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2007年8月

2007年8月16日 (木)

少し変わる勇気

 表題にも書いたが、柏崎に関する私の考え方を書き連ねるという作業を再開する。

 7月14日まで書き連ねていた「柏崎&にもかかわらず桜井」は文字通り野心作である。その野心的な部分が嫌われ、停止の事態となった。私自身がよく理解している。

 3年前になる柏崎市長選。私の掲げたものが「少し変わる勇気」であった。

 柏崎だけではないのだが、あまりに形式的なものの中で、絶対的に負けていく事態、無くなるという事態を避けるためには、私自身を含めた意識の変革、ちょっとした覚悟がそれぞれに求められる、ということを表したつもりであった。残念ながら、それは認められなかった。

 そして、未だ私がこのようなことを書き連ねることに不愉快を感じる方々もおられると思う。

 にもかかわらず、私がブログを似て非なるタイトルで再開するのは、地震後の柏崎にはやはり「少し変わる勇気」が必要だと考えるからである。私の野心や個人的な思いを乗り越え、そう考える。

 地震後の柏崎。実質的なもので組み立てていかなければならない。また同じ、といった事態は避けなければならない。太い骨が必要である。形だけの組み立てでは無くなる。

 遠くを見よ。

 明日以降、地震を振り返りながら書き進めていくこととする。

 初回の結びにあたり、ブログ再開を望んで下さった皆様と地震の最中、お励ましをいただいた皆様に感謝する。私の恩師、女子美術大学付属中学・高等学校の小河秋好校長先生、親友中村治教務主任始め教職員の皆様にも心からの感謝を捧げたい。改めて、短いものであったが女子美での年月を代え難いものと感じ、ありがたいものとし、誇りに思う。そして、にもかかわらず私は柏崎に帰ってきたのだ。

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2007年8月17日 (金)

地震当日 1

 7月16日、私は風邪で寝込んでいた。前日からの夏祭りにも出られなかった。ただ、この16日は三男の子供御輿と次男の野球遠征が重なっていた。何とか子供御輿だけでも出て、その後次男の野球に駆けつけたいと考えていた。夏祭りは、八坂神社のぎおんまつりである。私が柏崎に戻ってきて最も大切にしてきたものの一つであった。

 とにかく顔だけは出そう、と神社に赴き、午前10時に八坂神社を子供御輿は出発した。はっきりとしない頭と足で私も出発した。

 10時13分。下から突き上げる、グングンというべき揺れが私たちを襲った。0.00何秒という時間だったのだろうけれども、その揺れを地震とすぐに感じることはできなかった。全てゆっくりとした大きな動きの中で地面が揺れ、電柱が傾き、家々の石塀が倒れてきたように感じられた。

 「お父さん、家が倒れる」

 子供御輿につかまっていた三男が叫んだ。振り返るとほんの何十秒前に通り過ぎた家が土埃を上げて倒れていった。

 私たちは子供たちを集め、道路の真ん中でたたずんだ。両サイドに寄れば家屋の倒壊などに巻き込まれると思ったのであった。

 「もっと広いところへ行こうよ」

 付き添いのお母さんが声を上げた。私もその通りだと思ったのだが、比較的近くにある広場は川の近くだったのだ。私は津波を心配した。八坂神社は鵜川の正に河口にあり、海から100メートルほどに位置している。私は、川を見に行った。

 防災無線はまだ鳴らない。

 子供たちを移動させ、神社役員に御輿の中止を宣言してもらい、そこで解散を指示した。避難場所は柏崎小学校、防災無線が鳴ると思うけれども、石塀や古い家屋の近くは通らないこと、などと話した。

 私も三男を連れ自宅へ戻った。長男、父、母は無事であった。家の中はメチャクチャである。新潟市新津で試合をしている次男、応援の妻と連絡を取ろうにも相変わらず携帯は通じない。

 三男を家に置き、私は消防団の服に着替え、飛び出した。

 

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2007年8月19日 (日)

心意気

 今日は日曜日。学習塾SEAは夏期講習最終日。お隣の産文(産業文化会館)は全国から応援に駆けつけてくださったガス事業者の本部となっていて今朝も活気がある。

 各地から来ている方々も当然のことながらご商売であり、仕事である。ボランティアではない。けれども毎朝8時前後、集まり、そして現場へと散じていく作業員の皆さんには一定の雰囲気がある。心意気のようなものではないのか。

 昨日一通のお葉書をいただいた。東京電力の主要なポストにあった方からのものである。ブルーブラックの伸びやかな文字はいつもお人柄を感じさせる。私が柏崎に戻ってきた頃からずうっとお手紙を下さる。

 退職されてもう何年にもなるのに未だ柏崎を気遣ってくださる。原子力を心配されている。

 霞ヶ関の官僚、永田町の政治家。本当に日本のエネルギーを考え、柏崎のことを考えて戴いているのだろうか。そして、柏崎にはそれを喚起する心意気が足りないように思う。

 

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地震当日 2

 消防小屋には班長始め数人が集まった。ポンプ積載車ですぐに管内を回った。

  •  ガス漏れの可能性があるので火は絶対に使わないこと。電気のスイッチ類にも触れないこと。
  •  避難所としての柏崎小学校は水が出ること。(その後タンクの水が枯渇) 

 以上の広報と救助活動。

 東港町では倒壊家屋の間からお婆ちゃんを引っ張り上げた。ご無事であった。小町ではご夫婦の遺体を救急車へ。また、行方がわからなかったおじいちゃんを倒壊家屋の下から発見した。既に息切れていらっしゃった。3人とも近所のよく知る方々である。

 その後は更に行方不明の男性の捜索と巡視活動の3日間だった。

 次男と女房がお昼過ぎ、新津から帰ってきた。途中で水と食料を買ってきて、とメールしておいたのだが、女房は気を利かせて20リットルポリタンを10も買い、水を詰めて来てくれた。大いに助かった。

 あっという間に夜が来て、私たちは塾のあるビルに行った。電気が通じていたのである。約1週間を過ごした。父と母は避難所に行った。

 電気に関しては停電を免れた地域もいくつかあり、照明がつく、エアコンが使えるという状況は非常に大きく安心を支えた。

 塾の教室は2階と3階にあるのだが、来客用スペースのある2階は本と教材用のビデオ、DVD、またそれらを録画する機器などが入り乱れ、床から5、60センチの高さまで散乱している。とても足を踏み入れられるような状態ではなかった。(一月が過ぎた今でも全てはまだ片づいていない)

 3階部分は生徒用の椅子と机が主なる備品であるので、これらを端に寄せ、家族5人が寝泊まりするスペースを確保した。子供たちは地震で避難という事態に少し興奮気味というか遠足気分もあったので一喝する。

 電気・ガス・水道といわゆるライフラインと呼ばれる3つであるが、幸いにして電気が通じたというアドバンテージは大きかった。

 一日目の夜は、テレビとFMピッカラ(コミュニティ放送)を見聞きしながらウトウトとしながら過ごしたのであった。何といっても心配は原発であった。

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2007年8月20日 (月)

中越沖地震と柏崎原発

 もっと、柏崎市や新潟県は「国」に対して怒るべきです。第一義的には国に責任、というのが私の考えです。選挙が行われましたが、終われば雲散霧消です。

 国のエネルギー政策に協力し、そして翻弄されてきた柏崎市は、今回の地震で国に「原子力立地地域復興対策特別措置法」などを制定させ、法的な根拠裏付けをもって柏崎の復興に金を出させるべきなのです。避難施設となった学校が、その用を為さず、等という状況は恥です。

 小学校、中学校、高校、コミセンなどの耐震化は国の予算にて行うべきものです。道路にしても上下水道にしても公共インフラは国の予算にて行うべきものです。医療に対しても同様です。柏崎市はこの40年近くそれだけの事をしてきたと思うのです。

 耐震化といえば、その原発です。

 私は今回の事案は、「日本に原発が存在していいのか否か」また、「存在しなければならないとするならば耐震化の抜本的施設整備に掛けるコスト、電気料金への波及を含め、どれくらいの覚悟があるのか」というところまで行き着くと思います。

 日本の産業構造の転換さえも問いかける可能性を有していると思います。

 根本論議を正々として頂きたいと思います。国に対してもっと強く出るべきです。引っ張り出さなければなりません。怒るべきです。

 以上は私が7月29日、ある方に送った電子メールの一部である。激甚災害の指定などというのは当たり前のことである。加えて柏崎は原発立地地域であるという強い認識を国に持たせなければならないと思う。

 2年前、宮城県女川原発近くで地震が起こり、日本において初めて設計上の数値を超える揺れが原発で観測された。私はその当時ブログでことの重要性を指摘したが、残念ながら直後の柏崎市議会においてそれが大きく論議されることはなかった。
 また、反対派の方々からみれば地盤論議が30年間無視されてきたという思いもあるでしょう。

 今回、全国原発議会サミットが延期されることになったという。残念である。1ヶ月、2ヶ月延期をし、会場を柏崎刈羽において開催するという選択肢が考えられなかったであろうか。復興の支援にもなる。無論、技術的検証が未だ明確ではないという事情もあろう。しかし、今年、柏崎で原発議会サミットをやることの意義こそ、全国原発議長会を作り、議会サミット開催をリードした柏崎市議会の矜持ではないのだろうか。

 長年言い続けてきた、原子力安全・保安院の経済産業省からの独立。陣容を強化し、原子力専門の規制当局として執行力を持たせること。
 
 私が願うのはここ数年低調になった原発論議が柏崎において復活をし、柏崎の将来についての真の論議が、率直に、実質的なかたちで行われることである。今までと同じ轍を踏んではならない。
 
 大げさかもしれないが、柏崎、原発、東京電力、存亡の危機であるように感じられる。国の有り様を含めた大きな論議を柏崎がリードしていただきたい。
 

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2007年8月21日 (火)

柏崎ならばできる2007

 我が家は明日、あさって夏休み恒例キャンプである。山北の方へ行こうと決めていたのだが、明日の予報は雨。100%雨。朝から晩まで雨。よって私は奮発して長野県のホテルで1泊に変更しようと子どもたちに相談した。

 子供たちの答えは、「キャンプ!」

 おお!桜井雅浩の子どもたちよ。

 と朝から右往左往していたので、ブログ更新が遅れてしまった。

 さて、やはり原子力。今日から読売新聞で「原子力の50年」と題する連載が始まった。

 旧ブログで書き続けたように、世界は原子力ブーム再来である。「原子力ルネッサンス」と呼ばれているようである。しかし、日本では、青森県大間のABWRも着工が延期された。元々大間はATRで予定されていたはずだ。変更変更である。

 各地の原発地層調査が改めて始められている。

 柏崎市は頑張らなければならない。この機を逃して、規制機関としての経産省からの独立はない。権限の強化はない。この機を逃して復興対策特別措置法の制定はない。原発に関する根本論議は、日本のエネルギーに関する根本論議は、今この時である。

 過日、新潟県議会便りが折り込まれた。県議会首脳陣は、地震直後、原発を視察し、その雰囲気を体感している。柏崎市議会はいかに。

 柏崎市は激甚災害の指定を従来より1週間早い、などといって喜んでいる場合ではない。

 原子力50年の歴史を担って、今、柏崎が頑張るときだ。誤解無きよう書き添えるが、単純な原子力再興を求めているわけではない。先に書いたように、本当に原子力が日本にふさわしいものか否か、安全なのか否か、許容しうるリスク確率なのか否か、規制体制は実質的なもので真に機能させられるか否か、根本論議をじっくり時間をかけて行うべき、ということである。

 柏崎は未だリーダーとしての才能を発揮していない。組み立てようとする気概が未だ感じられない。

 本当に頑張って戴きたい。今だけがその時である。

 

 

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2007年8月24日 (金)

Kashiwazaki for Japan

I_for_japan_s

 内村鑑三記念堂に行ってきた。石の教会を見たいという女房に引きずられたのだが、良かった。

 かくあるべし。

 ( I for Kashiwazaki )
  Kashiwazaki for Japan
  Japan for the world

 市長が電源特会の活用について言及した。しかるべし。なお、特措法の制定に向かわれたし。

 9月市議会一般質問は、復興に関することのみ?原発は?

 原発定検期間13ヶ月から2年へ。さすが原子力安全・保安院。さすが霞ヶ関。センスの固まり。それを何ともいわずに発表させる政治の不在、無関心。

     Kashiwazaki for Japan
       Japan for the world
 

 

 

 

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2007年8月27日 (月)

routine を恐れる

 地震があって、1ヶ月を過ごし、新聞の整理をようやく終えようとしている。本日の新聞各紙に、柏崎の文字は無くなったようだ。地方版に残されただけである。

 内閣改造では甘利経産大臣が留任と伝えられている。官房長官は与謝野馨氏。与謝野氏は日本原子力発電でサラリーマンを経験していらっしゃる。

 国を前に引っ張り出してくるチャンスである。(あった) 特措法のことも含め、もう遅すぎるくらいである。国は既にルーティンに入っている。

 復旧になりつつある。復興でしょ。頑張るとき、知恵を出すとき、先を見るとき。

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2007年8月28日 (火)

それぞれの感謝

 自衛隊の皆さんもガス・水道の応援部隊の皆さんも、昨日、セレモニーを経て柏崎を離れた。感謝の気持ちを伝える手段は限られていたが、多くの住民がその気持ちを共有していたと思う。

 本当にありがとうございました。

 うちの近くのガス工事現場。交通誘導をしていたおじさんと話した。横浜から来たという。

 「こういっちゃあ悪いけども、オレなんか地震で助かったんだ。無ければ仕事にあぶれて、ホームレスだったんだ」

 柏崎でもこの地震で経済的に一息ついた企業も多いと思う。しかし、何度も書くが、繰り返してはならない、何も変わらないことを選択してはいけない。

 形式から実質へ、量から質へ、力から発想へ、物から人へ。

 日頃「心配している」と称する方の話を何度も聞かされてきた。しかし、

 今回の地震、一番嬉しかった言葉。

 「ああ、良かった、桜井さんが無事で」

 地震発生直後、消防団で地域を回っていたときのものである。私は再びポンプ車に乗り込んだ。広報するマイクをしばらく持てなかった。

 

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2007年8月29日 (水)

雨上がりの柏崎

 昨日の雨は土砂崩れなどいろいろと心配させ、気を重くさせた。一転、今朝は初秋を感じさせるさわやかさであった。これから気温も上がるのだろうけれども、猛暑と呼ばれる時期は過ぎたようだ。

 首都圏の電力需要ピークも停電という最悪の事態を避けることができたのだろう。良かった。

 とかくこちらに住んでいると「一時でも停電になればいいんだ!」などと悪態をつきたくなるのだが、私にもうそんなメンタリティはない。ただ、落ち着いて良く考えて頂きたいということだけだ。

 柏崎小学校は今日から登校が始まった。2学期制であるために、2学期と呼ばず、前期夏休み明けの初日とでも呼ばれるのであろうか。2学期制は私が議員当時に導入された。私は密かに「3学期制がいいなあ」と思っていたのだが、時の教育委員会や市執行部の施策に何も言わずに過ごしてしまった。強い反省がある。

 何事も単純すぎることは全く良くないことだが、分かりづらい、というのも同様に弊害があるように思われる。

 明確なものが求められる。それが展望と呼ばれるのだろうし、もしかしたら希望とか夢と呼ばれるものにつながるのかもしれない。

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柏崎の気概

 週刊ダイヤモンド9月1日号は「原発大解剖」と題している。

 34P、東電が配布したチラシについて書き、続けて、匿名を条件にして、柏崎市議会関係者の言葉が掲載されている。

 「ウラで東電と商売上のつながりがある市会議員などが中心になり、すでに地元世論の形成に動いている。頃合いを見て、『地元は早期稼働を望んでいます』という空気にまとめる腹づもりだろう」

 柏崎市議会関係者は、なぜ匿名で、なぜこのようなことしか言えないのだろうか。

 隣の35Pには、消防法に基づく原発の使用禁止命令を出した市長インタビューが掲載されている。もっともすぎるほどもっともな内容である。 

 議会、行政。いずれにせよ当事者である。リーダーの座を取り戻して頂きたい。

 本当に、

 Kashiwazaki  for  Japan

  Japan  for  the world   

 である。気概を見せて頂きたい。

 

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2007年8月30日 (木)

想像力

 今朝の読売新聞「気流」に柏崎の方の投稿が出ていた。知的障害の小学生を抱えるお母さんが、相撲協会に感謝するという内容である。お子さんが楽しみにしていた夏巡業。そこへ地震。思い切って相撲協会へ手紙を書いたところ、伊勢ノ海親方から電話があり、施設に立ち寄るとの言葉。

 「これからも、私たちに夢を与える大相撲であってほしいと思います」お母さんは感謝を込めて結んでいらっしゃる。

 期待通りに物事が推移することはまれである。けれどもその中にあって、一つでも人の夢をかなえることができる人がいるとするならば、その素養の一つは想像力ではないのか。

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2007年8月31日 (金)

さあ!  柏崎

 今朝の朝日新聞地方版に、地元紙主幹の言葉が紹介されていた。復興を目指す柏崎のスローガンが「頑張ろう!輝く柏崎」ではおかしいのではないか、という視点である。輝いているならば頑張る必要がないではないか、日本語になっていない、だから「たちあがれ!柏崎」という表題で連載を始めた、という記事である。

 その通りだと思う。言葉というのは魂であり、論理である。柏崎の場合常に論理は「うるさいもの」として端におかれてきた。だから今の姿がある。私だったら、と1ヶ月ほど前に考えていたのは「さあ!    柏崎」であった。さあ!と柏崎の間の空白がミソである。

 さて、その朝日の記事の中で、よく言われることが繰り返されていた。原発の金でハコモノを作ってきた事に関する指摘である。「普通の町」を求め、「自立心」を持つ事が指摘されている。私は違う見解だ。

 普通の町になり得ない、町が無くなってしまう危機、を約40年前に感じた人がいたのだと思う。だからこそ原発を選択したのだと思う。無論金銭にまつわる話も多かったのだろう。けれども、私は原発こそ「自立心」に結びつけることができると考えていた。ただ、この40年のアプローチの仕方を変えなければならないと訴えていたのだ。

 原発を金の集積と考えるのではなく、原発を人の集積と考えていくことにシフトするのだ。人の後に金は付いてくる。アプローチの仕方を変えていけば、原発は自立の象徴になれる。誇りともなりうる存在である。

 と考えていた。

 ただ、地震後あまりに発想がない。

  「さあ!    柏崎」

 

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