地震当日 2
消防小屋には班長始め数人が集まった。ポンプ積載車ですぐに管内を回った。
- ガス漏れの可能性があるので火は絶対に使わないこと。電気のスイッチ類にも触れないこと。
- 避難所としての柏崎小学校は水が出ること。(その後タンクの水が枯渇)
以上の広報と救助活動。
東港町では倒壊家屋の間からお婆ちゃんを引っ張り上げた。ご無事であった。小町ではご夫婦の遺体を救急車へ。また、行方がわからなかったおじいちゃんを倒壊家屋の下から発見した。既に息切れていらっしゃった。3人とも近所のよく知る方々である。
その後は更に行方不明の男性の捜索と巡視活動の3日間だった。
次男と女房がお昼過ぎ、新津から帰ってきた。途中で水と食料を買ってきて、とメールしておいたのだが、女房は気を利かせて20リットルポリタンを10も買い、水を詰めて来てくれた。大いに助かった。
あっという間に夜が来て、私たちは塾のあるビルに行った。電気が通じていたのである。約1週間を過ごした。父と母は避難所に行った。
電気に関しては停電を免れた地域もいくつかあり、照明がつく、エアコンが使えるという状況は非常に大きく安心を支えた。
塾の教室は2階と3階にあるのだが、来客用スペースのある2階は本と教材用のビデオ、DVD、またそれらを録画する機器などが入り乱れ、床から5、60センチの高さまで散乱している。とても足を踏み入れられるような状態ではなかった。(一月が過ぎた今でも全てはまだ片づいていない)
3階部分は生徒用の椅子と机が主なる備品であるので、これらを端に寄せ、家族5人が寝泊まりするスペースを確保した。子供たちは地震で避難という事態に少し興奮気味というか遠足気分もあったので一喝する。
電気・ガス・水道といわゆるライフラインと呼ばれる3つであるが、幸いにして電気が通じたというアドバンテージは大きかった。
一日目の夜は、テレビとFMピッカラ(コミュニティ放送)を見聞きしながらウトウトとしながら過ごしたのであった。何といっても心配は原発であった。
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